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『とことこみのお』へようこそ

大阪府北部に位置する箕面みのお市をお散歩しながらご紹介。歩くから見える景色・歩くからわかる地形があります。歩くのが少し楽しくなる箕面散歩のススメです。箕面の神社や保護樹木の紹介の他、さんぽの風景やお花などブログにて随時更新中です。いつもと違う視点から新しい景色や見たことのないお花を見つけに行きませんか。

いろいろな施設の分布図を作成中です。

【 箕面なんでも分布図 】
ボタンをクリックすると施設の位置がアイコンで表示されます。

貴重な自然が多く残る箕面市は中部から北部にかけて山が広がり、市の面積の約3分の2を森林が占めています。
役行者えんのぎょうじゃや空海などが修行した箕面山は山岳仏教の霊地として知られています。
南部を西国街道(山崎通)が通る箕面は瀬川・半町はんじょに宿場がありました。西国街道沿いに勝尾寺かつおうじと牧落八幡宮の鳥居があります。
明治末期には箕面駅ができて箕面の滝(箕面公園)を中心とした観光産業の他、農業や製炭業が盛んでした。現在は止々呂美とどろみ地区で実生柚子みしょうゆず(※)の生産が盛んです。
昭和にかけて阪急沿線の住宅地開発が進み、現在も新規開発・市街化が進んでいます。

このサイトでは新御堂筋を境に東部と西部、止々呂美地区を北部としました。

※実生柚子とは接ぎ木ではなく種から育てる柚子で実がなるまで18年程かかります。粒が大きく香りが高いのが特徴です。

箕面ってどんなところ?

箕面みのおの歴史と地形のことを少しご紹介します。

箕面市の歴史

箕面地域では大昔から人々が生活をしていました。発掘調査で縄文時代・弥生時代・古墳時代の石器や土器、住居跡や銅鐸などが見つかっています。
奈良時代から江戸時代にかけて西国街道などの道が整備され交通の要衝として発展してきました。宿場ができ、街道沿いや河川沿いに集落ができていきました。炭やお米、びわや栗などの生産が盛んでした。

江戸時代、箕面には22の村があり明治の頃に4つの村となります。止々呂美村・箕面村・萱野村は豊島てしま郡、豊川村は島下郡に属していました。明治29年(1896)豊島郡は豊能とよの郡に、島下郡は三島郡になります。

箕面4つの村

昭和23年(1948)に箕面村は箕面町となり後に止々呂美村と萱野村と合併します。
昭和31年(1956)に豊川村を編入して箕面市となります。

旧豊島郡と箕面

箕面市の郷土資料館に昭和初期の豊能とよの郡の地図があります。豊能郡域はそれまでの豊島てしま郡と能勢のせ郡の区域で郡役所は池田町(現在の池田市)に置かれました。

旧豊島郡域と現在の箕面市域をおおまかに重ね合わせてみました(下図)。 赤色の枠は現在の箕面市域で灰色の線は主要道路です。緑色の枠は旧豊島郡域、青色の枠は旧能勢郡域です。

豊能郡地図

この頃現在の箕面市東部にあたる豊川村は隣の三島郡に属していて、萱野村の東端は今宮・外院げいんあたりです。豊能郡の西端は現在の大阪と兵庫の県境・池田市猪名川いながわを境にそれより西が川辺郡です。南は現在の豊中市庄内まででそれより南は西成郡・現在の大阪市です。

牧について

古代、稲作に適さなかった箕面市西部は牧草地(豊島牧てしままき)でした。
牧とは牧場のことで、延長5年の延喜式左右馬寮の条に載る豊島牧には右馬寮うめりょう3牧・左馬寮さめりょう3牧が置かれました。この6つの牧は牛馬の増殖のための牧ではなく、献上される牛馬を諸国から集め一時的に放飼いにし必要に応じて供給するための牧でした。牧村や落村などと呼ばれた現在の牧落まきおちを含む箕面川流域が豊島牧の範囲といわれています。
垂水牧とは9世紀末~10世紀にかけて藤原摂関家が豊島郡(垂水西牧)・島下郡(垂水東牧)にまたがる千里丘陵一帯に置いた私牧。牧については大阪府史や芦原池史が参考になるかと思います。

箕面市の地形

箕面の地形

箕面市の南部を歩いていると北方に山が見え東西に走る国道171号線から北側・南側どちらへ行くにも緩やかに坂を上がる感じになる地点が多くあります。
これは北側には北摂山系の山麓が広がり、南側には千里丘陵があるからです。坂と川を意識して歩いてみると少しわかります。

箕面市の中部から北部にかけて広がる北摂山系は標高500m前後(箕面市域)、箕面市を流れる川の水源となっています。豊能とよの町との境界・明ケ田尾山あけだおさん(約619m)山頂付近が箕面市域では一番標高が高いようです。

箕面市の標高

国土地理院の地理院地図(電子国土web)でおおよその標高を調べそのデータをもとに標高を記した簡単なマップを作成してみました(下図)。

数字にマウスを乗せると地名が表示されます。

標高を標した図
ボタンを押すと画像が切り替わります

箕面山麓から大阪方面を見ると高層の建物もあって錯覚しますがなだらかに高くなっているのがわかります。

国道以南で周囲より高くなっている地点は、西部では瀬川4丁目5丁目付近、半町はんじょ4丁目付近、桜井3丁目付近、牧落5丁目付近で、実際に歩いてみても勾配が急な坂があり国道からも住宅が見えている所があります。
中部では船場西3丁目付近、東部では今宮3丁目付近、小野原西6丁目付近、小野原東5丁目付近が周りより高くなっています。

これらは千里丘陵の北斜面です。千里丘陵の標高は100m前後です。千里川は萱野・いなから千里丘陵の谷間(豊中市桜井谷)を通って空港方面へ流れていきます。

下の図は箕面山麓と千里丘陵周辺の地図で、傾斜をわかりやすく濃淡で示したものです(傾斜量図)。傾斜が急な所は色が濃くなっています。こちらの地図は時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」で確認できます。
スマートホン・タブレットの場合は2本指で広げると画像を拡大できます。

箕面傾斜量図

もうひとつの丘陵

千里丘陵とは別に箕面市東部にも高低差を感じる地域があります。
国道171号線小野原付近より北方山麓線方面へ行くと、坂を上って下りる感じになります。粟生あお新家しんけ粟生あお外院げいん・粟生間谷の一部辺りです。箕面市史には「粟生丘陵」と称して記述があります。
この丘陵の北側を勝尾寺川が、南側を箕川が茨木市へ流れていきます。
この丘陵に大きな団地や住宅地ができました。

まとめ

山地と丘陵の間に挟まれた平地を中心に箕面は発展してきました。
山麓からの眺望は素晴らしく、大阪平野を囲む生駒山地、金剛山地、和泉山脈、六甲山地の一部や淡路島の山を見渡すことができます。
また千里丘陵から眺める北摂山系とその山裾に広がる街並みも箕面市の大きな特徴です。

箕面と農業・産業

箕面を歩いているとため池をよく見かけます。
近代以降住宅都市として発展してきた箕面ですがそれまでは農業が盛んで、ため池は農業用水を確保する重要な役割を果たしていました。山麓には白姫神社水神宮龍王神社があり水の神様をお祀りして雨乞いの祈祷も行われていたようです。

古代、稲作に適さなかった西部は牧草地(豊島牧てしままき)でした。
中世から近世にかけては所当や年貢として米を、裏作で麦などが作られました。炭の生産も盛んでした。
他には何が作られていたのか、箕面を歩いてその名残を感じることができるか箕面市史で調べてみました。

箕面村は箕面市西部、萱野村は箕面市中部、豊川村・粟生村・小野原村は箕面市東部、止々呂美村は箕面市北部です。

中世~江戸時代

米は良質な酒米として評判が高く酒処池田・伊丹に売られました。
麦は農民の常用食でした。他には大豆、小豆、蕎麦、栗、りんご、茶、烟草(たばこ)などを作っていました。
この頃の大阪平野と同じく箕面でも綿と菜種の栽培が行われていて、菜種は油を他の村へ売るとしぼりかすは肥料として農家へ還元されていたそうです。

山間部で耕地が確保できない止々呂美村では柿、びわ、栗などを栽培し、冬の間は炭を作っていました。松茸も特産物だったようです。

炭の生産が盛んであった粟生村など一部地域では所当・年貢として炭も納めていました。小野原村では素麺の生産も行われていました。
江戸中期には島上郡・島下郡(現在の高槻市・茨木市辺り)を中心に寒天の製造が行われ箕面の一部地域でも行われていたようです。

明治

明治に入ると大阪は工業都市へと発展していき、山麓の箕面は商品作物生産の傾向が強まっていきます。

箕面村は農業用水が不十分で果樹栽培が重視され、大正に入るとかんがい区域を縮小して蔬菜そさい(野菜など)栽培が奨励されました。
今と昔の地図を比較して見ることができる「今昔マップ on the web」(©谷 謙二)で明治25年(1892)~明治43年(1910)の地図を見ても箕面村に果樹園が多いことがわかります。
スマートホン・タブレットの場合は2本指で広げると画像を拡大できます。

箕面地図(今昔マップon the web)

豊川村では酒米が中心になり、止々呂美村では果樹栽培と製炭業が盛んになっていきます。
能勢地方や止々呂美村で作られる炭・特にくぬぎの炭は切り口が美しく、その形から「菊炭」と呼ばれます。かたくて火付きが良いとして茶道に用いられ「池田炭(※)」として名声を得て現在に至ります。びわの植林に加えて炭に使用するくぬぎの植林も進められました。
萱野村では米作りや果樹栽培(柑橘類)が行われる一方で蔬菜・花卉栽培への転換も見られました。

※池田に集荷されたので「池田炭」と呼ばれました。

大正~昭和

箕面村では農業用水不足からの脱却を図り水田経営から畑作農業へ転換していきますが宅地化の進行と農業恐慌の影響もあって耕地面積は減少、果樹栽培は衰退し花卉かき(観賞用の花・草木など)栽培が主になっていきます。

豊川村では裏作の菜種栽培が衰退し米作りが中心となります。

止々呂美村では製炭が著しく進展しますが、昭和30年代後半には石油やガスストーブが普及し昭和40年代初頭には生産量が激減します。柿や栗の栽培は盛んで、栗は京阪神に出荷するだけでなくアメリカ・カナダにも輸出していました。

箕面の作物

まとめ

時代とともに農業地域は縮小していきましたが現在では食育や貸し農園など農地を活かした様々な取り組みが行われています。

たくさんあったため池は田地の減少とともにその役割を終え多くが埋め立てられました。大池と呼ばれた西小路の芦原池は当時の面積の5分の1となり、跡地に箕面警察署やメイプルホールが建設されました。

変わりゆく景観の中に昔の名残を見つけるのは難しいかもしれませんが、川や高低差を意識してみたり昔からある道を歩いてみたりして昔の風景を想像するとまたいつもの散歩が何倍もおもしろくなるかもしれません。

近年の都市開発により住宅地が山を這い上がっていきます。都心へ近いのに多くの自然が残る箕面市の人口は増加傾向にありますが、一方で古くからの住宅に空き家が目立ってきました。田畑は減り道路の整備が進められています。箕面市へ期待される発展と箕面らしさ・景観の維持が矛盾することなく万事良い方へ進むことを願っています。

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