『箕面の文化的史跡に親しむ会』主催のみのお遺産ウォークで箕面市北部・止々呂美の止々呂美城跡と日枝神社跡に行きました。
お城と聞くと大阪城のような建物を想像してしまいましたが、止々呂美城は山城であったようです。
天正7年、織田信長は謀反を起こした荒木村重に同調する摂津北部の諸城を掃討するために大軍を派遣します。止々呂美城主・塩山平右衛門正秀と織田の軍勢がここで戦ったと言われているそうです。
止々呂美城跡へは日枝神社の表参道から上ることもできるそうですが、道が悪いため舗装された道を上りました。
坂を上っていくと平地があり、段差があって山頂にまた平地がありました。見る方によっては曲輪や土塁、主郭が目に見えるのかもしれません。
山頂の平地には日枝神社跡の石碑があり、神社の遺物などが残っています。止々呂美城についての解説の立札などは見当たりませんでした。
止々呂美城がいつ頃廃城になって日枝神社が創建されたかは不明ですが、『箕面の神社案内(箕面市文化財愛好会発行)』によると、元禄5年(1692)の文書に下止々呂美の鎮守社「山王社」との記載があり、明治5年(1872)村社となり日枝神社と改称したそうです。
「山王社」という名称から山王権現が祀られていたと考えられます。山王権現とは日枝山(比叡山)の山岳信仰と天台宗が融合した神仏習合の神様だそうです。
明治の神仏分離で山王権現が廃止となり、山王社から日枝神社となって祭神は大山咋神であったと推測されますが、明治40年(1907)止々呂美神社に合祀される時には祭神は素戔嗚尊と稲田姫命となっているそうです。
※止々呂美神社の祭神である「八王子神」は素戔嗚尊の子にあたり、大山咋神は素戔嗚尊の孫にあたる神様のようです。
山に囲まれ、古民家や田園風景・豊かな自然が残っている止々呂美では昔からびわやゆずなどが栽培されていました。現在でもゆずはもちろん、山椒やしいたけ・栗などの産地として有名です。粒が大きく香り高い実生ゆずは接ぎ木ではなく種から育て、実がなるまで18年程かかるそうです。特産品を活かした様々な加工品はおみやげにもおすすめです。